シンジョーよりボクが上だよ

99年、広島東洋カープの監督に達川晃豊監督(現評論家)が就任した。

野村謙二郎遊撃手の故障による出遅れを不安視した達川監督は驚くべき案を打ち出した。

「ピッチャーペルドモ二刀流」である。

ある時はショートの練習をし、ある時はピッチャーの練習をする。

春季キャンプではそんな日々が続いた。

同時期に新庄剛志外野手のピッチャー転向が話題になっていたが、二刀流計画の先駆者は実はペルドモだった。

「(阪神の)新庄さんがピッチャーを目指して頑張っていますが?」というマスコミの質問に

「ボクの方が上だよ。」と答えるなど本人もまんざらでもない様だった。

マスコミも「実現するか二刀流対決」という話題を載せるなど、それなりに宣伝効果はあった。

しかし、新庄がオープン戦の段階で投手転向を断念するなどして、この対決は一度も実現しなかった。


さて、シーズンが開幕した。

ペルドモは開幕3戦目で2番セカンドとして先発出場する。

そして、4月15日の巨人戦でも野手として先発出場し、斎藤雅樹投手から来日1号本塁打を放った。


投手初登板は5月29日の横浜戦

6月20日の中日戦ではシーズン初勝利を挙げた。

そして、二刀流が話題になったのが6月27日の巨人戦である。

この日の先発は、ネイサン・ミンチー投手(現ロッテ)。

ペルドモは2番手として登板したがランナーを残して降板。

3番手のリック・デハート投手が決勝本塁打を打たれたので、ペルドモは敗戦投手になった。

これだけなら何の事はないのだが、実はこの試合ではこの投手リレーはルールの盲点を突いていた。

当時は外国人選手を登録する際に、「投手2人、野手2人」というルールが有った。

つまり、この投手リレーはペルドモが野手登録だったからこそ出来たのだ。

翌日は、「外国人投手3人でリレー?」という見出しを着けて報じる新聞も有った。

何度か登板を繰り返しているうちに、連盟から

「野手登録の選手がブルペンから出てきて投手になるというのは如何なものか。」という指摘があり、

代打として出場してからマウンドに登る事になったがこれは、ご愛嬌だろう。

その後もペルドモはある日は野手として、ある日は投手として1軍でプレーしていた。

結局この年は投手として 17試合 1勝2敗0S 防御率4.56、野手として 35試合 .200 1HR 4打点 という成績を残した。

しかし、残念ながらオフにカープを自由契約になった。


最後にペルドモの才能の高さを証明する事実を紹介する。


かつて新庄やペルドモよりも先に二刀流を目指した選手がいた。

オリックスの嘉勢敏弘投手(入団時は外野手、00年途中より投手に転向)である。

北陽高校から94年ドラフト1位でオリックスに入団した嘉勢は高校時代はエースだったが、バッティングもまた非凡なものを持っていた。

この為、嘉勢は外野手として入団したのだが、当時の監督、仰木彬監督(現評論家)が97年に二刀流プランを打ち出した。

しかし、4月に2試合登板するも、落合博満内野手に(当時日本ハム、現評論家)本塁打を打たれるなど、結果を残せず断念していた。

99年に新庄が投手挑戦を発表した時、反対していたのがこの嘉勢だった。


現在、メジャーリーグで活躍している新庄や、高校時代エースだった男が出来なかった二刀流を

いとも簡単にやってのけたあたり、このペルドモは只者ではなかったということになる。

現在は、母国ドミニカでフリーター生活を送っているという。


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